今宵も月が綺麗ですね

なぜ、月は輝くのか。そして、偶像に生身のわたしが「アイラブユー」と思うことについて。

溺れないナイフ 重岡大毅

映画が終わった瞬間、座席と自分がくっついていた。

手足に力が入らないというわけではなく、なんだろう圧? そう、圧! うん、圧!!!

ずっと見つめていた画面から出たと思われる圧みたいなもので、私と背中と座席は密着していた。

生まれたてのバンビみたいに立ち上がるにも時間かかったし、「溺れたわ…」と言いたかった言葉をいうのにも時間かかった。

 

 

重岡大毅のダイキッスのせいで!!!!!!

重岡大毅の切ない笑顔のせいで!!!!!!

重岡大毅の大友勝利のせいで!!!!!!!

足腰壊れたかとおもったし、内臓にダメージ負ったかと思った!!!!!!!

 

 

 

と、観た直後はこうだったのですが、珈琲飲んで、タバコは吸…えないから濵田君の喫煙シーンを(関係ないのに)想像して、落ち着いて息をしてみたところで(そこまでずっと溺れていたのでエラ呼吸でぎりぎり生きていた)、なぜ主語が全部「重岡大毅」になっとるのだよ、私…というところから

 

 

“大友を演じた重岡君だけがこの映画で溺れていなかったんだ”

というところに今、たどり着きました(いやー、泳いだ泳いだ。明日は全身筋肉痛だぞ!)。

 

 

内容に関しての説明みたいなものは「もうみんな観たよね!」という暴論で割愛しますが、重岡くんがインタビューで

 

『(キスシーンに関して)大友の、夏芽への抑えていた気持ちが出てしまったシーンですね。大友にとってコウちゃんは大きな存在だったし、勝てないというところがあったと思う。けどあのときは「今だったら、俺もいけるかも」みたいなタイミングだったんじゃないですかね。(cinematodayインタビューより引用)』

 

と答えているように、映画を観ていると重岡君が演じた大友はコウちゃんのことを大きな存在と思っているのが節々にわかる。その大きな存在というのが青春の無敵感っかんじの映画でしたね。夏芽もコウちゃんのそこ、好きだっただろうし、まぁ私もあの年齢で、あの田舎で、同じ学校にコウちゃんいたら前日から「バレンタインチョコとかコウちゃんにくだらなすぎる」とか思いながら一応はだせーチョコをコンビニで買っちゃって、当日はカバンに入れっぱなしで帰り道に当たり前に自分で食べるわ。神さんはあの缶ジュースは飲むけれど、クラスメイトのチョコなんて食べないから。

 

 

 

そんなコウちゃんと同じ女の子に恋する重岡くん演じる大友。当て馬キャラとか書いているテキストもありましたが、彼の自意識はコウちゃんとの比較で傷ついてなんか全然いないし、むしろ、下品な発言には「下品だ」というし、夏芽を心配してイツメンとの飯をキャンセルして弁当片手に夏芽のところに行けっている。大友の自分の意思で自分を動かす力すごい。

 

でも、家のお手伝いで夏芽の家に寄るような大友は、「世界は自分のためだけにまわっていないこと」という概念を身にまとっている。これは大友が、コウちゃんや夏芽と大きく違うところであり、だからこそ大友がこの恋愛に割って入る意味がある肝であり、私が一番この作品で胸をうたれたところでもありました。

 

 

重岡君が『夏芽への抑えていた気持ちが出てしまったシーン』とインタビューで語ったキスシーンも、夏芽を笑わせて笑っているのを確認しながらじりじり近づく(ジャス民の命、かなりここで失われたと思われる)、キスも自分の気持ちを押し付けないすぎない秒数(ジャス民の命、ここで~以下同~)、そしてまた笑っているか確認する(ジャス民の命、もう~以下同~)。

 

自分の好きだけで世界はまわっていないと知っている人の、相手を見つめた極みのキスシーン!!!!!(見渡す限りの屍)

 

 

 

 

そして重岡君の以下のインタビュー2つを読み合わせて気づいたのはこの世界は自分のためだけにまわっていないという感覚を「重岡大毅は気づいているけれど大友は完全には自覚していない」という概念で演じていたことです。

 

『大友は夏芽を励ましたいと思っているけれど、夏芽にはよく見られたい。彼女にとって特別な存在でいたい。好きになってほしい。振り向いてほしいという気持ちもある。男としても大友の気持ちはわかる。だけど、そこをぐっと抑えて、大友のセリフを言わなくてはならないので大変でした。』(cinematodayインタビューより引用)

 

『俺自身も、“この台詞、わかんねん! やりたいこともわかんねん!”って思うけど、そういう言葉が言えるって、男としてはすごいことなんです。そのすごさに、大友は気づいてない。だから俺、大友は実は恐ろしい男やと思ってます(笑)。』(oriconインタビューより引用)

 

 

実は、私は長年、大友という人物はもっと自覚的にそのポジションをしているのかなと思って原作を読んでいたので、

 

 

 

重岡君の解釈は大友を計算のないピュアネスな存在に、男子ならではの視点で押し上げてくれるものでした。

 

 

 

 

で。で、ですね。この世界をまわしているのが誰かに関わる自覚と無自覚について、こんなに思いを馳せることができることこそが「重岡大毅」が大友を演じたことの意味であり、観た直後に全部主語が「重岡大毅」になった要因であり、重岡君だけが溺れていなかった理由だと思うのです。

さあて、こっからいきなり論ぶっこむぞー(腕をぶんぶん振り回しながら)!!!!

 

 

 

突然ですが、アイドルというお仕事、(想像しているだけですが)溺れる罠いっぱいのお仕事だと思います。

 

☑業界のきらびやかさ(あくまで想像だけど)。

☑手に入れる金銭感覚の違い(あくまで1600万円の時計からの想像だけど)。

☑外野からの勝手な賞賛、批判、愛でられ行為、性的想像の的へのくくりつけ(これはよく見てます、よくしてます。ちなみに、外野から自由に扱われることこそがアイドルであるとは思っていますが、その話はまた別の機会に)。

☑自分で選ぶことのできない仕事、時間、運命。

 

 

 

あーーーーーー波高えーーーー!

アイドルってプロサーファーかよ!!!!

昨日うまく寝れなくて朝起きるのツライとか言ってる自分なんて波打ち際でちゃぷちゃぷらんらんらんじゃーん!!!

 

 

そんなアイドルとして生きる重岡君。

彼のパイナップルをはじめとしたダサ…いや素朴なTシャツ私服は、きらびやかな芸能界&富と重岡君の距離の象徴。

彼のやたらな健康配慮は、他者からさらされることに対する精神の健康を含めたセルフコントロールの象徴。

そう思いながら、私たち安心していませんか?

 

 

「応援するに値する人物であること」への安心を。

「応援した分、なにか返してくるかもしれない人物であること」への安心を。

 

 

で、重岡君はコンサートでこうです。

 

 

 

安心だ!!

健やかだ!!

 

 

重岡君のアイドルとしての振るまい方って、こうやってコンサートでしっかりファンにメッセージを伝えてくれたり、ラジオでちゃんとはがきにお礼をいってくれたり、会場ぶんぶん走り回ってくれたり…。メンバーに対しては、特に淳太くんに対してはちょけているけれど、対ファンとなったときには非常に丁寧ではないでしょうか?

 

我々が笑っているのを確認してくれる、そして自分の気持ちを押し付けすぎない感じで愛をふりまいてくれる、そしてまた我々が笑っているか確認する…………。

ねぇ…気づいた?? ……わたしたち、夏芽じゃん!!!!

 

 

で、これ。重岡君のインタビューでの言葉、再び。

『(アイドルである自分について)今は音楽がかかれば、笑えるんです。スポーツ選手で言うところのゾーンに入る、みたいな。うまく説明できないけれど、自分の中に、アイドルっぽいキラキラを出すスイッチみたいなのはあります(笑)。』(oriconインタビューより引用)

 

そう、重岡君はそれをすべて気づいてやっている!!!!ぎゃん!!!

 

 

大友を観て、ほぼ全員のジャス民が重岡大毅自身と結びつかせずに観ることが不可能だった理由、そして、わたしの主語も「重岡大毅」になっていた理由は、大友というキャラクターの持つ物語での役割(=自分がいる世界には他者が必ずいるという意識の所有)をいつも意識的にしているのが、私たちの追いかけているジャニーズWESTの重岡大毅だったからだ!!!!

ぜんぶ、重岡大毅のものなんだ!!!(夏芽気取り)

とわたしは思うのです。

 

アイドルという極論ファンとの相互作用によって生まれる仕事についている彼の「世界は自分のためだけにまわっていない」ことへの実感。ジャニーズWESTになるために大人の事情をかいくぐった彼の「世界は自分のためだけにまわっていない」ことへの実感。大友が無自覚でしていたものを、重岡君は何度も何度も体験して、身をもって感じてきたのではないかと思うのです。自覚するということがどんなことかを知っている。だからこそ、重岡君は大友が無自覚だということに、その振る舞いから、その言葉から鋭敏に気づいたのかもしれない。

 

 

青春真っ盛りの、夏芽もコウちゃんも自分の好きだけで世界がまわっていると思っている。

そして、映画を観て私は、完璧な構図を求める撮影の仕方、セリフの度重なる変更エピソードも含め、山戸監督もどちらかというと自分の好きで世界をまわそうとしている人、自分の世界に人を巻き込むことで感情を動かそうとする人に感じました。

 

自分が何者であるか判断をあまりくだされていない若者と、自我で世界を切り開く芸術家はそうであるべき人間だと思うし、若さや芸術とはそうであるべきだと思う。

 

けれど、若くもなく、芸術家でもない私は最後のコウと夏芽のバイクのシーン、そこに付随する世界を自分が回している感…無自覚で、未経験で、まぁだからこそそう思える自信の光には全然憧れなかった。それは私が無自覚で、未経験のまま、むやみやたらに笑っていることがだんだん許されない普通の大人の世界にいるからで、まぁ単なる年寄感覚だからかもしれないですが、2人のバイク降りたあとの長い人生を思って心配にすらなった。でも、ゆえに、目に、そして心に痛い恋愛のストーリーの中でくしくも最後にそんな大友が物語の蚊帳の外にはじき出されたのは救いだった。

 

“無自覚に”、“未経験に”、“むやみやたらに”を武器に夢を見ることができなくなった大人の私に、現実にきちんと根づいた夢を見させてくれる、それが大友であり、大友を実写で形作った重岡大毅であり、重岡大毅が所属するジャニーズWESTだと「溺れるナイフ」で私は強く強く再認識したのです。

 

 

人よりきっとはやい時期にに自分の好きだけで世界がまわっていないと気づいた重岡君。

コウちゃんのような夏芽のような、とにかく閃光力のある青春は過ごしていなかったのかもしれない。若いときからいつも人が回してくれる世界を意識しなくてはいけなかったから。

 

それが幸か不幸かなんて、とってもおこがましい問いだけど、もし私たちが少しでも彼の夏芽なら小声で「それは、俺ら次第や」とつぶやいてもいいのかもしれない。

ぴーかんぴーかんにほんばれ。